レイテンジャンキー・kinu@turboさまから強奪。
 ただそこにいる。
 ただそこにある。
 
 それがしあわせ。
 
 
 
 
 
                                絶対的幸福論 
 
 
 
 
 
 
 休み時間の晴れた屋上。
 練習の合間、誰もいない部室。
 月明かりの帰り道。
 密やかに呼吸を交わした、お互いの部屋。
 
 キスをした数を数えるのは大変だけれど、キスをした場所を数えるならばそれほど難しくはない。――が、指を3本、4本と折ったところで、栄口は考える事を放棄した。知らず赤くなっていた頬を扇いで、目の前ですやすやとそれは穏やかな寝息を立てる花井を見下ろす。
 練習が終わってそのまま訪れた彼の部屋。疲れているだろうに、律儀に明日の英語の予習をしている最中、こてんと寝入ってしまったのだ。
 なんだか子供みたいだなぁと思って、つい笑いが漏れてしまう。そろりと移動して、ベッドから毛布を引っ張り下ろす。本当だったらちゃんとベッドで寝かせてあげたいが、さすがに体格を考えると不可能だと言う事は目に見えていた。起こさないように、そっと肩に布団をかける。
 栄口のものより、随分厚みも硬さもある広い肩。抱き締められると、すっぽりと長い腕の中に収められてしまう。
 ほんの少しの悔しさと、こそばゆさにも似た愛おしさ。
 眠っている坊主頭をくりくりと撫でると、手のひらにくすぐったい感触が伝わってきた。
 
「――花井?」
 
 呼びかけても返ってくるのは穏やかな呼吸。寝顔をのぞきこむと、やけに幸せそうな表情をしていた。なんとなくむっとして、かけたばかりの布団をめくって、その隣にもぐりこむ。
 床に垂れていた腕を持ち上げて、その下に自分の体を滑りこませた。
 
「は―な―い―」
 
 誰の夢を見てるんですか。
 肩に額をすり寄せて、じっと表情を窺う。手を伸ばして頬を撫でても、起きる様子はない。
 
「まだ起きちゃダメだよ…」
 
 囁いて、花井の胡坐をかいた膝に手をついて、そっと身を乗り出した。伏せたまぶたに、唇が触れる、その瞬間。
 
「――…起きるだろ」
「え」
 
 思いがけず強い力に体を引き寄せられ、栄口はバランスを崩して、腕に引かれるまま花井の胸に倒れこんだ。そのまま容易く呼吸を奪われて、じたばたしているうちに体勢が入れ替わっていた。やっぱり体格では敵うわけがない。
 息継ぎのために離れた唇同士の間で吐息が絡む。目元を赤くして睨みつけてきた栄口を、花井は声を出して笑った。
 
「…いつから起きてた?」
「布団かけてくれて、そのあと隣に入ってきたあたり」
「なんか、ずるくない?」
「ずるいのはどっちだよ。寝込み襲おうとしやがって」
 
 笑いながら、もう一度、ゆっくりと唇を重ねる。
 栄口がキスを好きだと言う事を、花井は知っている。それも、興奮を煽るような深いものではなくて、お茶でも飲みながらのんびり会話をしているような気分にさせる、優しい口付け。ちょっとだけ触れて、額をくっつけて、目を合わせたらもう一度啄ばんで。穏やかな抱擁。もしかしたら、体を繋ぐよりも熱を探るよりも、彼がずっと大事にしている事。
 大人しく抱き締められたまま、栄口は花井の首に腕を回した。回された腕に、ぎゅ―っと、まるで迷子になっていた子供が母親にそうするように、体中の力を込められる。
 
「花井」
「うん」
「好きだよ」
「うん」
「さっきなんの夢見てたの?」
「うん?」
「うんじゃんくて。やけに締まりのない顔してたけど」
「妬いた?」
「妬くような夢見てたわけ?」
「栄口がさ、いたんだ」
 
 繋がらない会話に、彼がきょとんと瞬きをしたところにキスを落とす。
 そのまま頬に滑らせ、また唇に触れて、やんわりと甘噛みする。
 くすぐったそうに笑って、栄口も少しだけ身を起こして花井の鼻先にキスをした。
 
「なんか、メルヘンな夢」
「どんなの?」
「グラウンドがあって、俺はそこに立ってて、みんないるんだけど、俺が持ってるのはボ―ルじゃなくて」
「なんだったの?」
 
 ぶくくと堪えきれないように笑う。
 花井は笑うと眉が下がる。人の好い表情になって、栄口はこれを見るのが好きだった。花井が笑うと、空気が和らぐ。気持ちがすっと楽になる。不思議なくらい嬉しくなる。ああ、好きだなぁと再確認。
 話の隙間に、もう一度額をすり寄せる。
 
「小っちゃい、花束」
 
 ちょんと唇が触れて。
 間近でのぞきこんだ目が、おかしくて堪らないと告げるように微笑んだ。
 
「栄口のほうに投げたら、目が覚めて、そしたら栄口がいた」
 
 まだ頭の芯が寝惚けているらしい。上手く言葉が繋がらない。栄口の顔を覗きこむと、心底驚いたような表情をしていた。子供みたいだなぁと、思いながら抱き締める。
 抱き締めたら、耳元でくくっと笑う気配がした。
 
「キザ」
「うるせぇな」
「似合わないよ」
 
 花井の肩に顔を埋めたまま、小さな声で囁くように言う。回された腕がぎゅっとしがみついてくる。まるで迷子になったかのように。
 おおらかで、穏やかで、しっかり者で、頼りがいのある副主将。他人からそう称される事の多い彼だが、花井にしてみれば、彼の事を知れば知るほどまるで正反対の印象ばかり持つ。いつも何処か切羽詰っていて、何かを諦めたような目をしていて、ふとした瞬間脆く崩れてしまいそうな危うい不安定さ。
 それは、彼を守りたいと思う、自分の欲目なのかもしれないけれど。
 
「似合わないよ」
 
 頷いて、体を起こした。が、しがみついたままの体も一緒に持ちあがって、バランスを崩しそうになるのを、堪える。
 ぶら下がるような格好になるのを支えながら、ベッドに背中を預けた。離れようとしない栄口の耳朶に口付ける。練習後の疲れ。全身にかかる彼の体重が心地いい。じわりと足元から忍び寄ってくる眠気に、小さく欠伸をする。
 栄口が顔を上げるのが解った。
 
「…眠い?」
「ん…お前も疲れたんじゃない?」
「うん。疲れた」
「じゃ、寝るか。明日も練習あるし」
 
 花井がそう言うと、栄口は不意に、ふわりと微笑んだ。素直に頷いて、また額をくっつける。何故かひどく泣きそうに見えて、そっと目元に触れる。
 
 栄口はときどき泣き出しそうな表情で笑う。胸が締め付けられるように苦しくなる。目を背けたくなるほど見ているのが辛くなる。だから笑わせてやりたいと、思った。それが最初。
 
 彼に惹かれた、最初の最初。
 他の誰かではなくて、自分がその役目を負いたいと、恩着せがましい感情は一つもなく、ただ純粋にそう思った。生まれて初めての衝動だった。
 両手で頬を挟んで、深く唇を奪う。間近で視線を合わせると、栄口は首を傾げた。
 
「どうかした?」
「どうもしない」
「寝るならベッド行こう?」
「うん」
「花井、子供みたい」
「うん」
 
 どちらからともなくまたキスをする。触れるだけの口付けは、優しい甘さを舌先に残していって、離れていくとまた欲しくなる。まるで麻薬のようだと、栄口は思った。
 季節を考えれば、こんなに密着していては暑くて仕方ないはずなのに、不思議な事にお互いの体温が心地良く馴染む。のろのろとくっついたままベッドに倒れこんで、ぎゅっと抱き合う。もう随分重くなったまぶたを持ち上げて、目を合わせて少しだけ笑った。
 その笑顔が幸せそうだったからひどく安心して、すぅと意識が溶けていくのに任せた。
 ほとんど同じように、栄口も眠りに落ちていった事を、花井は知らない。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                                                                          
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